2008年05月22日

徳川江戸幕府

徳川家康こそ、日本最強の人物かもしれませんね。

概要
鎌倉幕府、室町幕府に次ぐ日本の歴史で3番目にして最後の幕府である。江戸幕府は、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍(以下、将軍)に任官されて始まり、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に15代将軍徳川慶喜が政権を返上し(大政奉還)、慶応3年12月9日王政復古の大号令(1)(慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許(2)江戸幕府を(強制的に)廃止 を以て幕を閉じた。徳川家が将軍を歴任したので「徳川幕府」とも呼ばれ、この間の264年間を「江戸時代」もしくは「徳川時代」と呼び、徳川家が実質的に日本を支配した時期であった。

なお、倒幕運動などが盛んになった最後の激動の時期を特に「幕末」と呼ぶ。

幕藩体制
江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内に藩を形成し、支配していた。寛文4年(1664年)には全国の大名に一斉に朱印状を交付する寛文印知が行なわれた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。ただし、「天領」「藩」の用語は江戸時代においては公式文書で使用されることはなく、明治維新後に正式用語として認められたものである。また幕府も「(御)公儀」と呼ばれていた。広義の幕藩体制は明治4年(1871年)の廃藩置県をもって終焉する。

江戸幕府の支配下、(水戸藩を除く)各藩大名に対して参勤交代を強いたり、築城・治水工事を命じたりして、大きな財政負担を与えることで弱体化させ、江戸幕府に対して武力反抗できないようにする政策を執った。

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政治機構内においては初代家康と二代秀忠、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十一代家斉の治世は将軍親政で政治が行なわれたが、それ以外の将軍は幕閣に政治を任せるか、前将軍(または将軍の父)である大御所に唯々諾々と従う存在であったかのように思われがちである。しかしこれは徳川期及び明治・大正期における大いなる誤解である。歴代の徳川将軍は能力の優劣はあったとしても、それぞれにおいてそれなりに政治に関与していた事実は確かであり、また逆に完全に独裁者として振る舞っていた訳でもない。歴代将軍の中でも一番独裁性の強かった徳川家康の治世においても、諌言したり政策立案する幕閣は存在したのである(家康はむしろ諌言する家臣を好み、また意見の相違で家臣とつかみ合いの喧嘩をする事もあった)。また逆に三代将軍徳川家光の場合、治世の初期は大御所・徳川秀忠に従う存在でしかなく、秀忠死後は政治のかなりの部分を幕閣に任せており、家光が親政を行なったというのは幕閣がそのように宣伝した結果であるとも言われている。基本的にどの治世においても将軍は完全な独裁者、もしくは(将軍が幼少の場合を除き)幕閣の完全な傀儡という状態ではなく、老中を中心とする幕閣による合議で決定された事案を将軍が決裁するシステムが存続した。

八代将軍徳川吉宗は、(徳川家康による)開幕以降最大の幕政改革を行なったので、自分が「幕府を中興した」という意識があった。
(以上、ウィキペディアより引用)

なんで滅びたんでしょうね。。

2008年03月31日

甲斐国

昔の地名ってかっこいいですよね!

甲斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東海道に位置する。現在の山梨県にあたる。甲州(こうしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、中国。

沿革
7世紀に成立した。内陸国だが東海道に属し、駿河国から甲斐国に通じる支線があった。日本列島における東西の政権にとって最前線と位置付けられることが多い。古代には甲府盆地に畿内色の強い甲斐銚子塚古墳が立地していることからヤマト政権の東国における進出拠点になっていたと考えられており、中世には京都と関東(鎌倉)の中間に位置することからそれぞれの防衛拠点として位置付けられた。戦国時代に武田氏により独自の大名領国を形成されたが、武田氏が滅亡すると再びその傾向は強くなり、豊臣政権は関東8か国を領した徳川家康に備えた最前線として豊臣系大名を配し、江戸時代には天領として、東海道や中山道とともに、甲州街道の通る甲斐は政治的・経済的中心地である江戸防衛の戦略正面と位置付けられた。

国府、守護所、一の宮、総社、国分寺
国府は、和名抄に八代(ヤツシロ)郡とある。拾芥抄では、山代(ヤマシロ)郡(八代郡のこと)、府と記載ある。 現在の笛吹市春日居町の「国府」地区か、国分寺があった笛吹市一宮町の国分付近に置かれたと推定される。一宮町の国分からは国分寺跡が発見されたが、国府の遺跡はみつかっていない。後、和名類聚抄ができた平安時代の国府は現在の笛吹市御坂町にあったとされるが、これも発見されていない。

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守護所は未詳だが、鎌倉末期以降は石和にあったと推定される。現在の甲府市が甲斐の政治的中心になったのは、永正16年(1519年)に武田信虎が躑躅ヶ崎館を建造してからである。

国分寺は、僧寺が笛吹市一宮町国分にあり、伽藍跡などは発掘されている。尼寺は笛吹市一宮町東原にあったと考えられている。

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延喜式神名帳には大社1座1社・小19座19社の計20座20社が記載されている。唯一の大社は八代郡の「浅間神社」で、名神大社に列している。ただし、この式内浅間神社の比定社は笛吹市一宮町の浅間神社、南都留郡富士河口湖町の浅間神社、西八代郡市川三郷町の一宮浅間神社の3社ある。

一宮は笛吹市一宮町の浅間神社(一宮浅間神社)といわれているが、一宮が浅間神社だと直接示す史料は中世にはなく、南都留郡富士河口湖町河口鎮座の浅間神社或いは西八代郡市川三郷町高田鎮座の一宮浅間神社であると論争されている。初見は1551年の史料になる。二宮は笛吹市御坂町の美和神社で、三宮は甲府市国玉町の玉諸神社、四宮は東山梨郡春日居町の甲斐奈神社である。いずれも、戦国時代に武田氏によって整備されたものである。

総社は、元々は笛吹市一宮町の甲斐奈神社(四宮の甲斐奈神社とは別。ただし、こちらが総社とする説もある)であったが、後に武田氏が創建した甲府市の府中八幡宮にその機能が移された。
(以上、ウィキペディアより引用)

なんででしょうね!